東京のIT関係者が3.11東北大震災で何かできないかと被災地に視察したものの、辛すぎて何もできずに帰ってきた件

2016/09/09

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今日は、いわゆる3.11。2011年3月11日に起きた東日本大震災から4年が経ちました。

私が働いていた当時の職場は、クラウドサービスを提供する会社でした。
また、そのとき過分にも、私はクラウド事業部長というミッションを与えられていました。要は、営業部門と製品開発部門と開発部門の取りまとめなわけです。

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東京のIT関係者が3.11東北大震災で何かできないかと被災地に視察したものの、辛すぎて何もできずに帰ってきた件

東日本大震災の当日

shibuya_center_gai

地震が起きた時、私は渋谷のセンター街にあるビル9階にいました。

ChatWork社(当時、ECstudio社)との会合に備えてネットカフェにいました。遊んでいたわけじゃありませんよ。前の用事から次の会合まで2,3時間ほどの時間があったので、効率を考えて帰社せずに電源のあるネカフェで仕事して(自腹ですよ)、そのまま渋谷のイベント会場に流れ込もうとしていたのです。

そのとき、9階建てのネットカフェは大きく揺れました。ずいぶん揺れたなあと思いながら、なんだか分からない非日常的な雰囲気に包まれてました。ネットカフェ利用経験者ならお分かりと思いますが、各個室が簡単なパーティーションで区切られているわけですが、皆が立ち上がっていて、横から見ると盛大なモグラたたきのようでした。

net_cafe

ふと我に返ったとき、都内の揺れは大したことはなかったので、堅牢なビルに入っている保育園にいる娘や、仕事している嫁は無事であろうと直感的にわかりました。

次に、東北にあった開発センターの皆や、そこにあるデータセンターは大丈夫なのか。本社の皆は無事なのか。気になりました。

クラウドサービスですからサーバが止まれば日本中のユーザーに影響があります。ユーザーは法人ユーザーばかりですので、もしサーバが止まれば影響は小さくありません。

datacenter

でも状況が全然わからない。だって私は渋谷のセンター街に一人でいるんだもの。

とりいそぎ交通機関は壊滅しているので、渋谷から新宿方面に歩き始めました。

by カエレバ

 

私は責任者という立場もあり、歩きながらも指示を出さなければなりません。電話回線は規制で使えませんでしたが、幸いイーモバイル回線は生きていたので、レッツノートを開きながら操作し、スカイプで東北拠点、本社、関西拠点、中国のサポート拠点などとのグループチャットを開設して、関係者の情報を得ながら適宜指示を出していきました。歩きスマホならぬ、歩きパソコンしました。

西日本の法人ユーザさんには、東日本の震災による停電などは関係なかった面がありますから、せめてアナウンスだけでも適切に行わなければ等の各種フォローに翻弄しました。実際に関西のユーザーさんからは「関西に地震が来たわけじゃないんだから地震なんて関係ない。早くサービスを再開してくれ」という辛辣なご意見をいただいたり。

でも主要拠点が離れているとこういうときにありがたいものです。直接影響のなかった関西拠点、中国大連拠点にはずいぶんお世話になりました。

一部のサーバを関西に移して稼働開始したり、応急処置は行いましたが、結局は自家発電のしっかりしたデータセンターに移すことになりました。これはこれで大変でしたがやむを得ない選択でした。

 

東日本大震災の数か月後

cloudservice

震災から半年くらい経ちました。クラウド開発会社としては東日本大震災の被災地に対して、何かクラウドサービスを提供できないか。早い話、ビジネスチャンスではないかと。何か微力ながら支援はできないかという志しのもと検討していましたが、どうにも状況とニーズが分からないと。

私は両親が宮城県出身だったものですから、多少の土地勘や雰囲気はわかるつもりということもあり、
そこでクラウド責任者の私と、営業担当者の2名で東北の被災地に行って業務システムのニーズを探しに行きました。2011年9月のことです。

ちなみにカメラは私の私物です。

まず宮城県庁や仙台市に行きましたが、それなりに事前の口利きをしてもらったにも係らず、てんやわんやでそれどころではありません。まずは住民の衣食住が最優先ということでした。

じゃあ自力で現地の声を聞こうと、仙台駅前でレンタカーを借りて、やや海沿いを北上して視察を兼ねて走っていきました。まずは仙台港付近です。

東日本大震災で被害を受けた建物

1階部分が完全になくなってしまっている建物。

東日本大震災で被害を受けた建物

異常な量の瓦礫、そしてイヤな臭い。

東日本大震災の被害で作られた瓦礫の山

もう。。。テレビや写真で見たものとは全く、本当に全く違います。何が違うかって悲惨さ、空虚さがガチで体感できました。

東日本大震災の被害で打ち上げられた船

仙台港の近くにある元住宅や医療施設なども見ました。石巻市立病院です。

東日本大震災で被害を受けた石巻市立病院 東日本大震災で被害を受けた石巻市立病院

巨大な病院が、震災から半年経過しているにも関わらず完全水没状態。

東日本大震災で被害を受けた石巻市立病院

津波が来たときに病院内はどんな地獄絵図だったのでしょうか。想像したくもありません。

東日本大震災で被害を受けた石巻市立病院

港の方に近づくと道らしい道がありません。水没だらけです。

東日本大震災で被害を受けた石巻市

明らかに幹線道路だった場所が完全に川、というか海のような状態に。

東日本大震災で被害を受けた石巻市 東日本大震災で被害を受けた石巻市

がれきもようやく集まってきたかなというくらい。

でも巨大なモニュメントは道路の中心に落ちっぱなしです。

東日本大震災で被害を受けた石巻市

by カエレバ

 

ぱっと見、クルマが渋滞しているのかと思うと...

東日本大震災で被害を受けた石巻市

信じられないほどのクルマが積まれています。

東日本大震災で被害を受けた石巻市

このあたりから私も同行したH氏も、なんだか分からない涙があふれてしまい「あー」「おーーー」など言葉にならない言葉を発していないと自我が保てないほどのメンタリティに。

東日本大震災で被害を受けた石巻市 東日本大震災で被害を受けた石巻市

お寺の墓石も壊滅状態です。

東日本大震災で被害を受けた石巻市

みんな流されて倒れて...

東日本大震災で被害を受けた石巻市

学校だって、3階のガラスまで割れてしまっています。

東日本大震災で被害を受けた石巻市

廃墟のようになっています。どこまで水が来たのでしょうか。

東日本大震災で被害を受けた石巻市の小学校

もちろん一般家庭もエライことに。

東日本大震災で被害を受けた石巻市 東日本大震災で被害を受けた石巻市

もともと空き地だったのか、瓦礫が撤去された後なのかすら分かりません。

東日本大震災で被害を受けた石巻市

私は両親が宮城県出身で親戚もこのへんに多くいるのでショックはでかいのですが、
実はH氏は神戸で阪神大震災を経験している人。

涙ちょちょ切れながら、カーナビで女川の商工会議所を目標値設定してドライブしました。ひっくり返っているビルばかりだけど大丈夫かなぁなどと思いながら。

だってこんな感じなんですもん。反時計回りに90度の角度で折れてます。

東日本大震災で被害を受けた女川市

カーナビさんは「目的地に到着です」と言ってますが、そこにはひっくり返った建物自体が並んでいました。

東日本大震災で被害を受けた女川市 東日本大震災で被害を受けた女川市

ここに商工会議所があったはずなんです。ふつうあるべき施設がない(それも更地状態)というのは実際に見てみると何か本能的にショックなものです。

看板を頼りに走っていたところ、高台に仮の商工会議所や役所の類が集まっているところを発見しました。

それなりに重責を負ってこの地に来た私と、営業として百戦錬磨のH氏、この仮商工会議所の前に付きましたが、二人とも足が動きません。

ごめんなさい。この惨劇をみた直後に、「この状況でお役にたてるクラウドサービスって何なんですかね?」なんて言おうと決めていたのですが、二人とも「俺、本当に無理」となり、何もしないでここを出ることにしました。

力なく、周りを見渡すと日本国旗が靡いていました。

東日本大震災で被害を受けた女川市

帰り道、海岸から少し離れたあたりもこんな感じ。

東日本大震災で被害を受けた女川市

 

まとめ

被災地域の貢献をしつつビジネスチャンスにありつきたい。こう思っていたことは事実であって今でも悪いことだとは考えていませんが、実際に現地に行ってみて写真や映像では感じることの出来ない悲惨さに、なにもできずに帰ることに。早期復興をお祈りしています。

東日本大震災で被害を受けた女川市

以上、最後までご覧下さり誠にありがとうございます。

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